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ゆかりの人物

守澄法親王御影(日光山輪王寺蔵)

[ しゅちょうほっしんのう ]守澄法親王(1634~1680)

守澄法親王は後水尾天皇の第三皇子として寛永11年(1634)に御誕生。徳川幕府の要請によって江戸へ御下向遊ばされ、東叡山寛永寺貫主、日光山輪王寺貫主、輪王寺門跡、天台座主に御就任。延宝8年(1680)に御遷化。

『伊勢崎風土記』や善應寺の伝承によれば、法親王宮は当山の開山をお許しになり、「施無畏山鏡泉院善應寺」の寺号と観音三十三身像を御下賜遊ばされたとある。

〔墓所〕寛永寺開山堂(東京都)

[ おばたけ たけたか ]小畠 武堯(?~1733)

小畠武堯は江戸時代中期の伊勢崎藩士。当時、伊勢崎藩では農業用水の不足を解消するために八坂用水の開削を決定。武堯はその事業の責任者に就任し、最新技術を駆使した八坂大樋を建設するなど、献身的な努力によって難工事を進めた。

通水当日、武堯は菩提寺である善応寺の本堂において死装束をまとい、失敗に終わったときには自害して責任を取ろうと覚悟する。結果として通水は無事成功し、その報を聞いた武堯は喜びのあまりその場で舞を一曲舞ったと伝えられる。享保18年(1733)没。

大正7年(1918)には、郷土への多大な功績が認められ、天皇陛下より従五位を贈位された。八坂用水は、現在に至るまで重要な農業用水としてその役割を果たしている。墓所は伊勢崎市指定史跡。

〔墓所〕善応寺
小畠武堯墓所

国定忠治像

[ くにさだ ちゅうじ ]国定 忠治(1810~1850)

国定忠治(本名・長岡忠治郎)は文化7年(1810)に上州国定村で誕生。若くして無道の道を歩み、上州きっての侠客として悪名を轟かす。その反面、地元民衆には飢饉の折に援助を施すなどして大きな支持を得た。嘉永3年(1850)に大戸の関所で磔により処刑。

その後、彼の愛妾であった菊池徳が刑場より忠治の遺体の一部を盗み出し、二ヶ所の寺に埋葬した。そのうちのひとつが善応寺であり、忠治を偲んで小説家の長谷川伸や尾崎士郎といった文化人が参詣している。

当山境内にはお徳の建立した《情深墳》が残り、表には忠治の戒名である「遊道花楽居士」、裏面には「念佛百万遍供養」と刻まれている。

〔墓所〕善応寺、養寿寺(伊勢崎市)

[ たかがわ いそ ]高川 磯(1784~1861)

高川磯は伊勢崎における女医のさきがけともいわれる女性。一旦は他家へ嫁して一男一女をもうけたが、夫に先立たれたため、娘のみを連れて実家へと戻る。家督を継ぐ人間がいなかったため、蘭方医・村上随憲(後述)を娘の婿として迎えた。

磯は晩年になって医学を修め、特に産術によって千人以上の命を救ったといわれている。文久元年(1861)に78歳で死去。辞世の句には「とつ年を重ね参りて行く旅も故郷近き弥陀の浄土へ」とある。

〔墓所〕善応寺

[ むらかみ ずいけん ]村上 随憲(1798~1865)

村上随憲像

村上随憲は伊勢崎における蘭学医のさきがけで、生まれは武州熊谷。若くして江戸に上り、吉田長叔のもとで蘭学を学ぶ。後に長崎まで遊学して、ドイツ人医師シーボルトに医学と蘭語を教授された。

文政11年(1828)に上州境町で開業。貧富を問わず治療を施すとともに、上州では最も早い時期に種痘を行ったといわれている。

この頃、随憲は善応寺の檀徒である高川家の婿養子に入ったが、幕末の不穏な時代に洋学を学び、また皇室を崇拝していたことから、随憲とその家族は幕府によって多くの弾圧を受けた。しかし随憲は屈せず、私塾「征病余暇楼(せいびょうよかろう)」を開いて無償で指導を行い、そこから、金井烏洲、金井之恭、大館謙三郎といった勤皇家など多くの門人を輩出した。

慶応元年(1865)に68歳で没。開業の地である境町の長光寺に埋葬されたが、善応寺の檀徒でもあったことから、当山の過去帳には「修學英翁居士」の戒名が見て取れる。

〔墓所〕長光寺(伊勢崎市)

[  したら てんぼく ]設楽 天僕(1841~1883)

設楽天僕は天保12年(1841)に、伊勢崎新町(現在の大手町)で誕生。若くして西洋医学を学ぶために郷里を離れる。江戸では戸塚海静、大阪では緒方洪庵、長崎ではオランダ人軍医ポンペの下で学を修めた。

文久2年(1861)に伊勢崎へ帰郷し、21歳で外科医院「日精堂(にっせいどう)」を開業。その後、学問所「郷学責善堂(ごうがくせきぜんどう)」の頭取に就任し、後の伊勢崎政界を担う武孫平(初代伊勢崎町長)、石川泰造(第3代伊勢崎町長)、細野次郎(衆議院議員)といった人材を養成。

さらには、伊勢崎初の小学校である赤石学校(現在の伊勢崎市立北小学校)の初代校長に就任するとともに、伊勢崎初の町議会選挙に立候補して当選。初代の町議会議長に選出される。

没後、菩提寺である善応寺に埋葬されたが、戦後になって子孫の移住に伴いその墓石は移転した。

〔墓所〕不明

新井雀里

[ あらい じゃくり ]新井 雀里(1813~1900)

新井雀里は幕末の伊勢崎藩士。秀才の誉れ高く、若い頃から藩内の学習堂の頭取を務めた。安政5年(1858)には蝦夷(現在の北海道)へ出向し、十数年に及ぶ開拓事業に従事。戊辰戦争の最終局面では、幕臣・榎本武揚のもと、ともに五稜郭に籠城した。

伊勢崎へ帰郷後は、私塾「南淵塾」を開いて漢学を教授し、後の伊勢崎政財界を担う多くの逸材を育成。また、国定忠治の墓碑銘をはじめとする多くの墓碑銘を手掛けた。一説では元来大酒呑みであったが、健康を害して後は塩・茶・煙草などを絶ち、それらを生涯口にしなかったといわれている。

明治33年(1900)に87歳で死去。没後は彼の弟子たちによって「雀里会(じゃくりかい)」が結成され、『南淵百絶(なんえんひゃくぜつ)』などを出版するとともに、毎年命日には墓参して雀里の遺徳を偲んだ。

〔墓所〕善応寺

[ まちだ かしょう ]町田 佳聲(1888~1981)

町田佳聲(本名・町田嘉章)は、明治21年(1888)に伊勢崎町(現在の三光町)で誕生。生家は善応寺の檀徒で醤油業を営む豪商であり、彼の親類にあたる当主の町田傳七は、筆頭檀徒総代として昭和7年(1932)の当山本堂再建に尽力した。

佳聲は、旧制前橋中学において同級の萩原朔太郎の影響を受け、織物の図案を学ぶため東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学。卒業後に長唄や三味線などを習い始め、大正15年(1926)のNHK開局と同時に入社。邦楽担当として、北原白秋とともに数多くの名曲を発表するなどして活躍。

その後、民俗学者・柳田国男の薫陶を受けて、日本全国の民謡研究に従事。40年以上にわたり全国をまわって調査を続け、昭和55年(1980)に『日本民謡大観』を完成させた。

昭和26年(1951)に藝術選奨文部大臣賞、昭和56年(1981)に吉川英治文化賞をそれぞれ受賞している。

〔墓所〕不明
町田佳聲

町田とく

[ まちだとく ]町田とく(1886~1950)

町田とくは、群馬県初の女性県議会議員。先述の町田佳聲の親類にあたる。彼女は夫の町田傳七に先立たれた後、家業の醤油製造業を切り盛りしていた賢夫人であった。

第二次大戦後、日本でも女性参政権が認められる中、昭和22年(1947)に実施された群馬県議会議員選挙において、とくは婦人会の支援のもと無所属・中立の立場で立候補。その結果、県内でただ一人、女性として初めての当選を果たした。

彼女は、食糧難の中で家事育児に追われる主婦層の立場を代弁するとともに、昭和22年のカスリン台風の際には、被災地を駆け回るなどして精力的に活躍した。

在職中の昭和25年(1950)に死去。享年64歳。

〔墓所〕善応寺