39
クッション

寺院紹介

善応寺の歴史

善応寺は江戸時代の初期に創建されました。当時、このあたりの土地には宗存阿闍梨という高僧がおり、毎朝庭にある梅の古木の前で香を焚き、太陽を奉拝していました。そうして何年も経ったある日、宗存が床に就くと、梅の木の前に観音菩薩がお立ちになるという夢を見ました。目覚めた彼が木のもとへ近づいてみると、なんとそこには観音像が出現していたのです。

この出来事に感動した宗存は早々に江戸へ向かい、上野の東叡山寛永寺に出向いて自らの体験を報告しました。宗存の話は、寛永寺におられた天皇の皇子・守澄法親王のお耳に達します。法親王宮は、宗存の不思議な体験に大変感銘を受けられ、寺を建立することをお許しになり、寺号と仏像を下賜されました。

こうして善応寺が創建され、宗存は初代の住職となり、以後当山は寛永寺の直末(直轄)寺院となりました。明治維新にあたっては比叡山延暦寺の直末に列せられています。

伊勢崎空襲により焼失した本堂(昭和7年撮影) 当山21世と本堂再建委員(昭和7年撮影)

善応寺年表

慶安年間(1648~1651) 伊勢崎陣屋東門前に創建。聖観世音菩薩像を本尊と為す
元禄年間(1688~1704) 当山第7世幸順代に、春日作の阿弥陀如来像を京都より勧請し本尊と為す
享保3年(1718) 伊勢崎町大火により焼失。藩主の命により現在の地に移転
昭和7年(1932) 当山21世代に本堂を再建
昭和20年(1945) 伊勢崎空襲により焼失
昭和42年(1967) 当山22世代に本堂を再建
平成3年(1991) 当山22世代に薬師堂を再建
平成19年(2007) 当山23世代に、老朽化のため本堂および客殿を再建

境内写真

本 堂

平成19年(2007)建立。総檜造り。御本尊をお祀りしています。

客 殿

平成19年(2007)建立。法事の際の詰所や、各種会議の会場として使用しています。

薬師堂

やくしどう

平成3年(1991)建立。薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)をお祀りしています。薬師如来は、病気平癒をはじめ、人間の悩みや苦悩を取り除いて癒しを与えるといわれています。堂内には護摩壇(ごまだん)が設けられており、ここで火を焚いて祈願を行います。

聖観世音菩薩像

しょうかんぜおんぼさつぞう

当山の御本尊。縁日の8月9日は、「四万六千日(しまんろくせんにち)」と呼ばれ、この日に参詣すると4万6千日分の御利益があるといわれています。

また、かつては縁日に境内でトウモロコシを売っていたことから、「トウモロコシ観音」の愛称でも親しまれ、粒の多いトウモロコシにあやかって、子宝や子孫繁栄に大変御利益があるとされました。

千手観音像

せんじゅかんのんぞう

宝暦5年(1755)銘。吉井藩(高崎市吉井町)の第2代藩主・松平信友(まつだいらのぶとも)の家臣団が、主君の武運長久・子孫繁栄を願って奉納したものです。

戦後の一時期には焼失した御本尊に代わって、臨時の本尊として奉られました。

宝篋印塔

ほうきょういんとう

宝篋印塔は経典を納めるための塔で、当山11世眞應(しんおう)が建立し、後に13世旭端(きゅうたん)が再建しました。

詳しい経緯は分かっていませんが、塔の上部に寛延3年(1750)銘、台座部分に寛政11年(1799)銘とあることから、古い部分に継ぎ足して現在の高さになったと考えられています。

庚申塔

こうしんとう

延宝4年(1676)銘。庚申塔とは、庚申講(こうしんこう)と呼ばれる行事を行った際に建立されるものです。

当山のものは板碑型(ばんぴがた)と呼ばれ、江戸期の庚申塔としては最も古い形態に属します。正面には太陽と月、鶏、猿がそれぞれ彫刻され、庚申塔の特徴をよく伝えています。

歴代住職紹介

〈 第21世 〉小川 晃徹

明治37年(1904)、群馬県榛東村の柳澤寺に生まれる。大正大学卒業後、柳澤寺および当山の住職を拝命。
群馬教区宗務所長、天台宗宗議会議員を歴任。昭和32年(1957)に遷化。享年53歳。権大僧正を贈られる。

〈 第22世 〉小川 晃毅

昭和9年(1934)、群馬県榛東村の柳澤寺に生まれる。早稲田大学卒業後、当山住職を拝命。
伊勢崎市立女子高等学校に教諭として奉職しつつ、戦後荒廃した当山の復興に尽力。現名誉住職。

〈 第23世 〉小川 丈信

昭和32年(1957)、群馬県南牧村の慈眼寺に生まれる。同志社大学卒業後、貿易会社勤務を経て、当山住職を拝命。
平成19年(2007)には、本堂および客殿を再建。平成22年(2010)に遷化。享年52歳。僧正を贈られる。